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萌えと癒しを糧に生きる社会人腐女子。ヤンデレやJUNE系の重い話が大好き。懐古厨なので昔のBLばかり読んでいます。

炎の蜃気楼という哲学

2018年1月、炎の蜃気楼にはまりました。ちょうど環結した月に出会いました。これは運命だと、迷わず原作に手を出しました。しかし、炎の蜃気楼は今までぬるま湯に浸かってきた腐女子が簡単に読み進められるほど生易しいものではなかったのです。直高を追い続けるには思わぬ伏兵がたくさん待ち受けていたのです…


ちなみにまだ最終巻まで読んでいません。現在(20180302)32巻を読んでいます。その時点で思ったことをつらつらと書きたいと思います。

 私にとって一番の鬼門が赤鯨衆でした。そもそも第1、2部と第3、4部の間には確固たる断絶が存在すると思います。2部までは直江と高耶が結ばれるまでを描き、3部からは運命に翻弄されながら生と死に向き合う二人が描かれています。正直2部までのテンションで読んでいたら途中から何を読んでいるのか分からなくなりました。もはや哲学です。修行です。

 そしてもう一つ、ミラージュにおいて最も重要な転換が起こります。それは高耶さんが怨霊から人間を守る側から、怨霊と共に生きるために戦うという全く逆の立場に立つことです。赤鯨衆という精神的生存者に出会い、彼らの生きたいという強い欲求に共鳴したからです。ここに自分vs炎の蜃気楼の戦いの火蓋が切って落とされました。戦いは未だ続いています。様々な立場に譲れないものが存在し、それぞれの思惑が錯綜するミラージュの世界において何が正しいのか、最終巻までに自分なりの決着をつけたいと思います。